ハイヒューマン『黒の鍛冶師』直属の配下であり、その筆頭。
国の境なく、人々を脅かす厄災を退ける英雄。
その美貌で各国の王を魅了した、ハイエルフの美姫。
シュニー・ライザーという人物を説明する際、大抵はこの3つのうちのどれかとなる。
偉大な存在に認められたという、圧倒的な力を持つシュニーを取り込もうと画策する者たちは後を絶たない。しかし、成功した者はいなかった。
財力や権力には見向きもせず、貴重なアイテムを贈られても一切動じない。
血筋、家柄、器量、それらすべてを兼ね備えた男たちに囲まれ誘われても、微笑みをたたえて否と返す。
そんなシュニーが唯一心を動かすもの。それは主である『黒の鍛冶師』シンに関する情報だ。
西にそれらしき者がいたと聞けば西に。東にそれらしき男が現れたと聞けば東に。
シュニーは全力で駆けた。
「ではティエラ。私は各施設の掃除をしているので、何か用があれば呼んでください」
「わかりました」
そんなシュニーにも、日常というものは存在する。
人々を脅かす事件は多いが、大抵は国や冒険者ギルドで解決できるものだ。いちいちシュニーに頼るようでは、国の威信も揺らいでしまう。
シンの情報についても、出所の怪しいものや明らかに罠と思われるものもあり、判別するのも難しい。
そんな理由もあり、シュニー・ライザーは世間の人々が思っているほど、日々駆けずり回っているわけではなかった。
今日も今日とて、いつシンが帰ってきてもいいように、月の祠の清掃を徹底して行う予定だ。
店番は保護しているエルフ、ティエラに任せ、まずは鍛冶場に向かう。
出入りする者が皆無の鍛冶場は、以前シュニーが来た時と何も変わっていない。それでも道具に埃が積もっていないか、入念にチェックする。
最上級素材を使って作られた道具は、埃くらいでどうにかなるような代物ではない。それでもシュニーはひとつひとつ、丁寧に磨いていく。
すべての道具を磨き終わると、シュニーは部屋の隅にある椅子に腰かけ、静かに目を閉じた。
一人しかいない空間が途端に静かになる。
しかし、閉じられた目の奥にはシンの鎚を振る姿が浮かび上がり、鎚と鉄がぶつかる音が耳に届いていた。
在りし日の主の姿は、シュニーの目蓋の裏に焼き付いているのだ。
今でこそ鍛冶の神様のように語られているシンも、はじめは失敗ばかり。魔力を使った製法を覚えても、肝心の魔力が足りず、シュニーが補助をして剣を打つこともあった。
その時打った最初の一本は、シュニーには開けることのできない倉庫の奥で今も眠っている。
シンが成長するにつれシュニーの出番はなくなったが、それでもシンが鉄を打つ姿は見続けてきた。
シュニーにとって、その光景はいつまでも色あせることはない。
しばらくして目を開けると、見えていた主の姿が霧散する。目の前にあるのは、火の落ちた炉と、持ち主を失った道具だけだ。
「…………」
シュニーは無言で部屋を後にする。掃除が必要なのは鍛冶場だけではない。
次にやってきたのは錬成室だ。
武器も防具も、鉄だけで作れるわけではない。モンスターの皮や鱗、それを加工するための薬品など、鍛冶師が必要とするものは多かった。
また錬成室は様々な素材を使用することから、非常に汚れやすい。換気用の設備があっても、壁や床がベトベトすることもある。
なので、錬成室はシュニーがいるときは毎日、ティエラしかいないときも、数日おきに掃除することになっていた。
「……ティエラが使ったようですね。アイテムを補充したのなら、しばらくは使わないでしょう」
シュニーは慣れた手つきで、モップを片手にてきぱきと作業していった。
各種道具が入っているガラス張りの棚の表面を、曇らないようしっかりと磨く。
その念の入れ様は、月の祠に来た当初のティエラが驚いたほどである。
「こんなものでしょうか」
光を反射して輝く壁や床を見て、シュニーは満足げにうなずいた。
真剣かつ入念に、シュニーは月の祠の清掃を続けた。
ティエラの部屋だけは、プライベート空間なのでチェックしない。ティエラも物を散らかす性格ではないので、逐一口を出す必要はなかった。
途中、洗濯や食事の用意などを挟み、掃除を続ける。
そして最後に掃除するのが、主であるシンの部屋だ。
シュニーがいないときは基本的に、ティエラに施設の掃除を任せるが、この部屋だけは例外だ。主自身か、その配下しか入ることはできない。
掃除を始める前に、シュニーはベッドに腰かけ部屋の中を見渡す。
物は多くない。
ベッドと机、トロフィーの並んだ棚など、必要最低限の家具があるだけだ。
あまり内装にはこだわっていなかったので、良くいえばシンプル、悪くいえば特徴のない部屋だった。
この部屋で過ごした記憶は、シュニーにはあまりない。
もともとシン自身も、部屋には寝に帰ってくる――本人は『ろぐあうと』と言っていた――程度だったのだ。
「……少しくらいなら、いいですよね?」
誰に言うでもなくつぶやいて、シュニーは腰かけていたベッドに倒れ込む。
道具や家具には妙なこだわりを見せたシンのベッドだけあって、シュニーが倒れ込むと優しくその身を受け止めた。
「…………」
シュニーは枕を抱きしめ、静かに目を閉じた。
食後ということもあり、眠気がシュニーの意識を、ゆっくりまどろみの中へと誘っていく。
次にシュニーが目を開けたとき、時計の針は午後3時を指していた。
「……また、やってしまいました」
枕に顔をうずめて、シュニーは溜め息を隠す。仕えるべき主の部屋でいったい何をしているのかと、自己嫌悪が湧いてくる。
何度同じことをしたか、もう数える気も失せた。しかし、わかっていてもこう思ってしまう。
夢の中なら主に会えるのではないか。
この部屋で、このベッドでなら、主の夢を見られるのではないか。
夢を見るくらい、いいではないか。
「こんな姿、主には見せられませんね」
シンに失望される。そう考えただけで、自身の内から生じた甘えは消え去る。
活を入れるため、シュニーは思いきり自身の頬を叩いた。パシッといい音がして、なよなよした考えが消えていく気がした。
「まだ探していない場所はあります。まだ、希望はあります」
ベッドから立ち上がり、気持ちを奮い立たせる。
希望は捨てない。
可能性がゼロでない限り、諦めない。
ふと、ティエラの呼ぶ声が聞こえた。シュニーは気持ちを切り替え、部屋を出て店へと向かう。
そこにいた訪問者が言うには、モンスターが異常な行動を見せており、調査、場合によっては殲滅に協力してほしいとのことだった。
「わかりました」
うなずいて、シュニーは詳しい話を聞くことにした。
シュニーは待ち続ける。主が帰ってくるその時を。
シュニーは願い続ける。夢が現実になるその時を。